とうとう私は、助けが必要であることを認めました。私は師を必要としていたのです。真実の師、本物の、決定的な師が現れるように祈りました。本物の師、本物の教えとはどういうものか、その結果がどういうものになるのか、私にはまったくわかりませんでした。ただ、もがき苦しむことから解放されたい、と いうことだけはわかっていました。私は私の真実の存在を実感したかったけれど、どうしたらそれができるのかわかりませんでした。私は、自分の知る限りの手を尽くしたことを認め、そしてついに降参したのです。
真実の師が見つかることを祈ってからわずか六ヶ月のうちに、奇跡的な状況が重なり、私はインドでH・W・プーンジャ(パパジ)と向かい合っていました。パパジは私を普通以上の歓迎のしかたで迎えてくれました。目をキラキラさせながら私を迎え入れ、彼が私に与えられるものは何であれ持っていきなさい、と言ったのです。私の資格をチェックすることも、私のカルマをチェックすることも、長所を数え上げることもパパジはしませんでした。私が彼に会えて興奮していることを彼は私の目に見て取り、そしてこう言ったのです。「何が欲しいのか言ってごらん」
私は答えました。「自由です。すべてのもつれや思い違いから自由になりたいのです。最終的で絶対の真実というものが本当にあるかどうか知りたいのです。何をしたらいいか教えてください。」
パパジはまず「正しい場所に来たね」と言い、それから「何もしないでいなさい。あなたの問題のすべては、あなたが行動し続けることにある。 すべての行為をストップしなさい。信じることも、探し求めることも、言い訳することも。すでに、そして常にここにあるものをあなた自身で見つけなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい」と言いました。
私はそのときじっと座っていたので、いったいパパジが何を行っているのかわかりませんでした。それから、彼は肉体的行為のことを言っているのではない、ということに気づきました。そうではなくて、パパジは私に、すべての精神的な行為を止めるように指示していたのです。
頭の中で疑問や恐れが聞こえました。もし考えるのを止めたら、肉体を気遣うこともなく、朝ベッドから起きることも、車を運転することも、仕事に行くこともできない――私は恐怖でいっぱいになりました。探し求めるのを止めたら、ここまでの探求の中で手に入れたと思っていた地盤を失ってしまうような気がしました。自分が手にいれたように感じていたものの一部をなくしてしまうかもしれない、と。
けれどもパパジの存在感は偉大で、その、彼の目を見つめた瞬間、私はそこに、力、明晰さ、そして広大さを認め、それが私の足を止めたのです。師が与えられることを求めたのは私でした。そしてその瞬間、幸運にも私には、自分が求めた師の言うことに注意を払うだけの分別があったのです。その瞬間私は、何ごとも いとわずに、恐怖の底にある思考を追うことも信じることも止め、初めはどうしようもない絶望の深淵のように思われたところに落ちていきました。すると、私が追い求めていた充足感と平和はここにあること、それはこれまでもずっとここにあったということ、そしてそれがなくなる可能性はない、ということが明らかになったのです。
何より驚いたことに、そのことを私はずっと知っていた、ということに私は気づいたのです!その瞬間私は、これまで私が欲しがってきたもののすべては、すでにここに、純粋で永遠なる存在の地盤として存在しているということに気づきました。私が「私」「私のもの」と呼んでいた苦しみのすべては、この輝く純粋な存在の中で起こっていたことでした! そして、何よりも重要なこと、つまり、私の本当の姿とはすなわちこの存在である、ということがわかたったのです。そしてこの存在は、あらゆるところに、見えるもの、見えないものすべての中に在るのです。
このことに気づいたとき、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきフォーカスの転換が起こりました。それは何という平安、何という休息だったでしょう! それまでにも私には宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間がありましたが、これは まったくその性質が違っていました。それはいわば冷静な恍惚状態であり、その瞬間、私は「私」という物語に縛られてはいない!ということに気づいたのです。
その瞬間私が気づいたことのシンプルさは信じがたいものでした。そんなにシンプルなことであるはずがない、と思っていたのです。私はずっと、罪、欲望、好戦性、憎しみ、そしてカルマがなくならない限り、この平安には到達できないと教えられてきましたし、教えられたことを信じてきました。やっと私は、私が何を考えたにしろ、それはいつでも思考に過ぎず、条件付けの影響を受けたり消えてなくなる可能性があったりする以上、信頼のおけないものである、ということに気づいたのです。真実を発見したとき、もはや思考を信頼することはできませんでした。思考は私の主人ではなくなったのです。知らない、ということに対して抱いていた怖れは、知らないということの喜びに姿を変えました。知らない、ということが、思考では認知できないものに私の心を開いてくれたのです。何という安ど感、何という素晴らしい解放感だったでしょう!
(ガンガジ著 『ポケットの中のダイアモンド』より)
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